1.淡水域・汽水域


 1-2.淡水魚に関する書籍

「淡水魚」
 淡水魚保護協会 1号(1975)-13号(1987) B5判

 昭和40年代より淀川水系のイタセンパラ保全等を訴えていた木村英造氏が主宰した、(財)淡水魚保護協会の機関誌。[当時は絶滅に瀕した種を救おうと立ち上がっても「それって食えるのか(人間の役に立つのか)?」という価値判断しかなかった時代でした。]昭和50年より年1回発行。初期の頃は沖縄返還に伴って次々に日本初記録種が見つかり、ツバサハゼやボウズハゼ類がカラー口絵を飾りました。報文を読むと当時の興奮が伝わってきます。13年にわたり、各地の淡水魚の現状報告、研究成果がまとまった形で残されたのは大きな財産と言えましょう。また、オオクチバス害魚論争、協会が行うアマゴなど渓流魚の放流(屋久島やブータンに放流されました。)についての論争など、誌面上で多くの議論が戦わされました。サケマス類については増刊や別冊が4度発行されました。


創刊号
 1975年8月20日発行 145頁(うちカラー8頁) 2000円

 ソフトカバーではありますが、本文はアート紙を使った高級仕様。カラー頁はイタセンパラなどの水槽写真の他、「南の珍しい淡水魚」としてニセボウズハゼ[現在のナンヨウボウズハゼ]、ルリボウズハゼ、アカボウズハゼ、ツバサハゼ、タメトモハゼなどの標本写真が掲載されています。

 特集は「琵琶湖・淀川水系の魚を守るために」、「サケ科魚類の放流について」で、後者には協会に対する批判記事も含まれています。[協会の前身である関西淡水魚保護協会は、昭和45、46年に、ヤマメの棲息していなかった屋久島にヤマメを放流していた。]この特集では、森林生態学者の四手井綱英氏「屋久島のヤマメ放流批判」での「一種の自然破壊」との批判、丸山隆氏「淡水魚の移殖事業に対する現状批判」での純粋な系群が失われることの懸念やこれが不可逆過程であることの指摘があります。当時学生だった柳昌之氏「屋久島へのヤマメ放流反対論」では、本来の分布地においてなぜ減少したのか、の検証をすべきで、協会はイタセンパラではそれをやったのに、何故ヤマメはそうしないのか、ブルーギルの移植者にどう対処するのか、少なくとも放流するならその水系産を使用すべき、等の指摘をしています。[その後、ヤマメは定着しており、余談ですが、私自身も平成12年に屋久島を訪れた際、名もない小河川の河口付近でヤマメを確認しています。]

 この他、伊丹市に昭和44年までイタセンパラが棲息していたことなど、各地からの報告が特集されています。


2号
 1976年7月20日発行 205頁(うちカラー8頁) 2500円

 本号からはアート紙ではなくなりますが、余白の少ない、凝縮された紙面レイアウトは最後まで継続します。カラー写真にヨスジハゼ、タナゴモドキといった琉球の魚(水槽写真)の他、ミヤコタナゴ、スイゲンゼニタナゴ、カゼトゲタナゴ等のタナゴ類(水槽写真)、韓国やネパールの魚(水槽写真)が掲載されています。

 特集は「河川湖沼の環境破壊」「サケ科魚類の放流」で、後者に関連して協会によるネパールでのアマゴ放流についての記事も別途載っています。会員のページには、ブラックバスは害魚ではない趣旨の投稿もあったりして、放流に関する当時の議論が生々しく伝わってきます。


3号
 1977年8月10日発行 192頁(うちカラー8頁) 2000円

 カラー口絵は、この年に天然記念物に指定されたアユモドキ、ネコギギの他、イバラトミヨ、イトヨ、ハリヨ、台湾やネパールの淡水魚など(水槽写真)。

 特集はダム問題、外来魚の放流、トゲウオなど。

 外来魚特集では、寺島彰氏の「琵琶湖に棲息する侵入魚」という琵琶湖でのブルーギル拡散についての報文があり、昭和40-42年に西ノ湖に現れた本種が、昭和50年には琵琶湖北端まで拡散したことが図解されています。その発端として、琵琶湖総合開発による在来種の減少を補う目的等により、行政レベルで飼育されていたブルーギルが逃げ出したとしています。[ブルーギルは昭和40年に西の湖で初めて確認されました。滋賀県水試では、昭和38年から陸上の管理水面で飼育していましたが、昭和42年、西の湖内に生け簀を作って飼育実験をしています。ただ、生け簀は二重で、個体数も厳格に管理していたとのことです。この生け簀による実験時には、既に西の湖にはブルーギルがいたようで、琵琶湖のブルーギルの由来は不明です。]

 また、木村英造代表が皇太子殿下と面会してお話しを伺い、琵琶湖でのブルーギルの逸出を心配されていたことや、サケ科魚類の放流に関して各河川型の持っている特徴が失われるのではと懸念されておられたことなどが掲載されています。

 トゲウオ特集では、ミナミトミヨについては2つの報文があり(成田清章氏の「まぼろしのミナミトミヨを求めて」 丹信實「ミナミトミウオ(サバジャコ)の頃(遺稿)」)、本種は高瀬川にもいて、時には金魚屋でも売られていたこと、昭和3年当時の生息地(吉祥院村:現京都市下京区)や保護に適切とされた池3カ所の写真が載っています。この3カ所は、いずれも消失したと報告されています。


4号
 1978年7月31日発行 214頁(うちカラー8頁) 2500円

 カラー口絵に初めてフィールド写真を収録。桜井敦史氏によるウグイの群れ、サクラマス、ドンコなど。他に水槽写真でドジョウ類(ジンダイドジョウが含まれる)、韓国の淡水魚などが紹介されています。

 特集は「琵琶湖の水を奪うもの」「淡水魚分布図作成のために」「外来魚の放流その2」「ドジョウ」など。3号で川那部浩哉氏が提唱した淡水魚分布図作成について、対象魚27種を選定(天然記念物4種を含む希少種)し、自然環境保全基礎調査(昭和53-54)の一環として調査することとなった旨報告されています。[結果は下記に公表されています。当然ながら具体的な生息場所については記載されていません。http://www.biodic.go.jp/reports/2-14/2-14.pdf]

 外来魚の特集では、バス導入反対論者の報文を掲載。中でも赤羽徳雄氏の「東条湖(兵庫県)のブラックバス禍」の事例は衝撃的だったと思われます。このダム湖はワカサギ釣りで賑わっていましたが(ワカサギも移入ですが)、昭和47年6月29日に大阪のルアー釣り団体から地元の漁業会社に一通の手紙が届きます。「バスを6月下旬から7月下旬に放流したい。迷惑を掛けることはない。」漁業会社は直ちに断りの手紙を送りましたが、すぐにバスが出現し、「予定どおり入れた」と人づてに聞いたといいます。昭和50年にはワカサギは不漁となり、51-52年は壊滅、そればかりか下流のため池にもバスが出現するようになった、漁業会社では放流した団体に損害賠償請求する案も出た、といった報告がなされています。

 上野益三氏の「読書室所蔵魚類写生帖淡水魚」では『山本愚渓策魚類写生帳』という江戸末期の写生画が紹介されており、アユモドキが「ヤナギドジョウ」として載っています。本種は明治時代には西高瀬川で多産し、四条-三条の間では材木屋が川から水を引く樋の中まで入ってきたといいます。

 道津善衛氏による「マハゼの産卵研究覚書」では、宮崎県の清武川と加江田川の合流部に当たる木花港の干潟(干出する場所)に、マハゼの産卵孔があるとの情報を得た著者が、昭和28年1月、現地で産卵生態を明らかにする様子が生き生きと描かれています。当時、この干潟では、干潮時に地元民が産卵孔に手を突っ込んでマハゼを漁獲していました。その後、この干潟は埋立られ消失し、再度調査する機会は永遠に失われました。[昭和22年12月に米軍が撮影した航空写真を見ると、清武川は河道閉塞しており、海の目前で海岸線と平行に流れ、加江田川に合流しています。道津氏が調査したのはこの合流点付近と思われます。現在は県総合運動公園となっています。]


5号
 1978年7月31日発行 214頁(うちカラー8頁) 2500円

 カラー頁は前号に引き続き、桜井敦史氏によるアユ産卵、カラフトマス産卵などのフィールド写真、小宮山英重氏によるオショロコマの産卵行動。他にユゴイ類の標本写真など。特集は「魚ののぼらぬ魚道」「ダム公害を告発する」「アユ」「外来魚の放流 その3」など。

 誌上では創刊号以来、外来魚の放流に関する議論が続いていましたが、その間にも放流は続き、本号でも三宅島の大路池にバスが大繁殖していることなどが報告されています。[この頃には小さな水域にもバスが広まっていました。]

 中村守純、君塚芳輝両氏の「霞ヶ浦で採集されたカネヒラ」によれば、昭和53年秋に、霞ヶ浦流入河川でカネヒラが確認され、その原因として、霞ヶ浦の淡水化対策の一環として、昭和45年より琵琶湖から移植されたセタシジミに、卵や仔魚の入ったタテボシガイが混入していたのではないかと指摘しています。[この後、カネヒラは東日本に広まっていくことになります。]


増刊 イワナ特集
 1980年4月30日発行 144頁(うちカラー16頁) 3500円

 カラー頁は通常号の2倍、表紙も通常号より高級な紙となりました。カラー冒頭は、小宮山英重氏や桜井敦史氏によるフィールド写真。特に小宮山氏によるオショロコマの産卵は極めて鮮明です。また、産卵後の「舞い」や、カラフトマスの産卵にアメマスが産卵しているシーンなど、珍しい瞬間が収められています。水槽写真では各水系のオショロコマ、イワナ(アメマスを含む)が紹介されてオリ、後者にはゴギ、キリクチ、カメクラ、流れ紋、無斑なども含まれます。ゴギの写真は、後に東海大学出版会の『フィールド図鑑 淡水魚』にも掲載されています。

 本特集は、これまで釣りからの観点ばかりだったイワナに、学術的分類、生息環境、生態など他の観点からも迫ってみよう、というコンセプトで作られました。高額にもかかわらず、昭和62年には6刷を数えたほど本号は売れたようです。

 興味深いのは若手研究者による座談会で、イワナは支流になるほど寄生虫が多くなるとか、広節裂頭条虫が見つかったら研究者はそれを体内で飼うとか、イワナ属の雌は産卵後「舞い」をするといった話が掲載されています。


6号
 1980 1980年10月10日発行 160頁(内カラー8頁、モノクログラフ8頁) 2700円

 表紙はイワナ特集と同じ紙を使用。巻頭カラーは桜井敦史氏によるアカザや、卵を守るカジカ。次いで、片山久氏によるアユモドキの産卵(水面からの写真)。他に、山岡耕作氏によるタンガニーカ湖のフィールド写真(夜間潜水による撮影も含まれる)など。モノクログラフは初で、8頁すべてが八重山諸島の淡水魚(汽水魚も含まれる)の標本写真。特集は「アユを守るための訴え」「ヒマラヤ渓谷の放流アマゴ調査」。

 瀬能宏、鈴木寿之両氏による「八重山列島の淡水魚(Ⅰ)」は、第一陣として、ハゼ類以外の淡水魚についてどのような魚種が得られたかが報告されています(モノクログラフと連動した記事です)。ヨコシマイサキといった希な種まで含め、現在知られる種の多くが報告されています。

 本号には当時30歳の哲学者、内山節氏と、ジャーナリストの湯川豊氏の「川の滅亡」という対談があります。内容的には川そのものよりも、山村の衰亡を論じつつ、自然環境を保全する思想をどう確立していくべきかを主題とする対談です。内山氏は、千年二千年続いてきた山村の営為が高度成長期のわずか20年ほどに若年層の流出によりほぼ崩壊したが、若者がUターンしてきて山村を維持しようとする兆しも見えると指摘し、一方、湯川氏は、山村の経済的基盤が失われ、いったん都会に出てしまった若者は容易には帰ってこないだろうと悲観的・現実的な認識を示しています。[その後20-30年を経て、インターネットの発達などにより情報取得の均質化が図られ、ICT化が進展するとともに、若者が山村に戻る、行く、あるいは都市を目指さない、という世界観も現実になりつつあります。]また、内山氏は日本の自然は概ね人の手が入っており、原生的な自然を守るだけではなく、共生する発想が必要、湯川氏も、人間は精神面も含め、自然抜きでは生きていけないとの趣旨を述べ、これらの議論を通じて、サンクチュアリを作ろう、とする発想では自然は守れないだろう、という意見の一致を見ています。[これは現在の里地里山に通じる考え方かと思います。]

 他に、イシドジョウが九州でも発見されたこと(永井元一郎「イシドジョウ九州に生息」) 、イドミミズハゼが静岡県で発見されたこと(相澤裕幸、国領康弘「静岡県で得られたイドミミズハゼ」) 、西表島でテッポウウオが発見されたこと(能勢宏、鈴木寿之「八重山列島の珍魚二題」)などが報告されています。また、長澤和也氏の「イワナ掘り」は東北大の苫米地三郎氏のエピソードですが、ある淵に大きなイワナがいて、かねてよりこれを狙っていたところ、川が干上がって淵の水もなくなっている、苫米地氏は土に潜ったと判断し、川底を掘ったら件の大イワナが出てきた、しかも生きていたとのことです。


別冊 大島正満サケ科魚類論集
 1981年2月日発行 246頁(うちカラー4頁) 3900円

 大島正満氏(1884-1965)は、タイワンマス(サラマオマス)、ミヤベイワナ(発見者である植物学者・宮部金吾への献名)の命名や、イワナ属、サケ属の分類を手がけたことで知られています。内村鑑三(元々は魚類学者だった。宮部金吾とは札幌農学校の同期。)より激励され、魚類学の泰斗、ダビッド・スター・ジョルダンに師事しつつも、帝大教授という肩書きを持たぬ(旧制高校である東京府立校教授だった)ことを終生誇りとしていたとのことです。サラマオマスの発見者は、大島の部下だった青木赳雄技師(台湾総督府中央研究所)で、大正6年(1917)のことでした。大島からこの一報を受けたジョルダンは「熱帯にマスがいるとは信じられない」と一笑に付したのですが、台北に戻った大島は大正8年(1919)、マスの幼魚を入手、ジョルダンとともに新種記載しました。

 本特集は、大島博士の論文や論考集で、戦前のものは現代仮名遣いにあらためて収録されていますので、読みやすくなっています。イワナ属の部とサケ属の部という構成で、カラー頁はイワナの種、亜種の原色図版です。

 昭和11年(1936)の報文では、昭和10年7月、タイヤル族(台湾高地の原住民。首狩りをすることで知られており、なかなか近づけなかった)の住む大甲渓にて陸封のマスを多数採取、天然記念物として保護してはどうか、という話に対しては、「天然記念物として現地人からうばうとは良い方針ではない」としています(当時は多数棲息していた)。

 昭和16年(1941)のクニマスに関する論考では、本種の幼魚は極端に餌付きが悪いこと、ヒメマスとは生息場所を異にすること、年中成熟していることなどからヒメマスとは別種としています。そして「近い将来、このマスは絶滅の運命にあるのではないかと思われる」としています(既に当時、玉川の水が田沢湖に導入されていました。)


7号
 1981年9月25日発行 202頁(うちカラー8頁、モノクログラフ2頁) 3000円

 全体的にハゼ科特集で中心はヨシノボリとなっています。カラー口絵は桜井敦史氏によるウキゴリの孵化、オヤニラミの産卵など。また、特集に連動して、ヨシノボリ各型の標本写真など。モノクログラフは前号に続き、八重山の淡水魚で、これもハゼ類となっています。

 ヨシノボリ特集の冒頭は、水野信彦氏による「ヨシノボリ学入門」で、ヨシノボリ類の研究史を総括するもの。田中茂穂博士が台湾や朝鮮半島のヨシノボリをすべて「1種」とし(ただし変異はあるとしていた)、その後筆者らにより陸封型のカワヨシノボリが分離された等の経緯を紹介し、当時知られていた各型を紹介しています。宍道湖型と房総型は似ているが房総型は小型、宍道湖型と橙色型は色斑の類似が著しい(尾柄部が橙色かどうかで分ける)、橙色型は琵琶湖で一生を送るヨシノボリが基準、橙色型は佐渡をはじめ各地で発見されており、アユ種苗への混入らしい、宍道湖型と黒色大型は別物、宍道湖型は内湾性で流れの速い場所にいる、両側回遊型のハゼは容易に陸封される、といった知見がまとめられています。続く各報文で、琉球列島産も含め、各地のヨシノボリ類について報告されています(これらの各型は、現在では種として独立しているものも多くあります。)。これら報文の一つ、本間義治氏による「佐渡のヨシノボリとウキゴリをめぐって」では、ウキゴリ3型についての考察があります。尾柄部の斑紋が判別に有効と判明した、というもので、①汽水型(スミウキゴリ):台形又は半円形で大きい、②淡水型(ウキゴリ):円形で眼径大、③中流型(シマウキゴリ):Y字状又はV字状で淡い、としています。また、上原伸一氏による「房総半島のヨシノボリと房総型」では、房総型は用水路のような濁った川に住み、横紋型(シマヨシノボリ)とは棲み分けていることを示唆しています。

 福井正二郎氏による「河のアルピニスト ボウズハゼ」は、本種が梅雨期から10月中旬にかけ、紀伊半島の河川で水のない垂直(あるいはオーバーハングの)壁を登る生態の実見記です(この生態そのものについては、1979年に魚類学会誌に発表済)。

 充実した内容であるにもかかわらず、「本号は2500部刷ったものの、期末までに1600部しか売れなかった」と9号で述べられています。[やはり当時の関心は渓流魚だったのでしょう。]


増刊 ヤマメ・アマゴ特集
 1982年3月31日発行 256頁(うちカラー32頁) 4800円

 冒頭にアクアコミュニティ、桜井敦史氏、小宮山英重氏によるフィールド写真。次いで、各水系のヤマメ、アマゴ、ビワマスのカラー写真。サラマオマスの写真もあります。通常号に比べカラー写真は4倍で、最も分厚い一冊となりました。価格も4800円と当時としてはかなり高額です。「売れ行きはイワナ特集には及んでいない」と9号で述べられていますが、売り切れて増刷されたようです。

 「若手研究者によるサクラマス群座談会」では様々な議論がなされていますが、降海型アマゴについては、当時名前が定まっておらず、「ビワマス」とされていました(日本魚類学会 『日本産魚名大辞典』 三省堂 1981)。「顔が違う」「どう呼ぶべきか」「カワマス」等の意見が出され、ひとまず「降海型アマゴ」で議論を進めています。[「サツキマス」という名称が定着するのは昭和末期頃のようです。]

 本号には、協会がタイ国政府に対し、昭和55年にカワチブナ(ヘラブナ)、同56年にアマゴの発眼卵を提供していることが報告されています。


8号
 1982年11月8日発行 186頁(うちカラー8頁) 3000円

 特に断りはありませんが、本号は従前の号と異なり学術的色彩が濃いものになっており、前半は学術論文、後半は一般向け、の感があります。

 細谷和海氏の「日本産ヒガイ属魚類の分布と変異」は、ヒガイについて、カワヒガイ、ビワヒガイ、アブラヒガイの3亜種を提唱するものです。

 田中晋・平井賢一・田祥麟各氏による「韓国で発見されたミナミトミヨと京都産ミナミトミヨの形態の比較」では、京都産は①体型がずんぐりしている(韓国産は細長い)、②棘が短い(ただし、背棘の先端が欠けていた可能性あり)、③鰭膜が広く黒い(韓国産はまだら状)、とされています。韓国産をkaibaraeと同定するなら、京都産のkaibaraeとは変異型であることは確かなようである、また、秋田県田沢湖町で韓国産ミナミトミヨと似た個体群が見つかっているが、これをkaibaraeと認めるかどうかを含め、sihensis pungtiusの変異を十分に検討した上で議論すべきとしています。[その後、最近になってイバラトミヨ雄物型は韓国のミナミトミヨと同一系統であることが強く示唆されると報告されました。特徴が一致しています]。


9号
 1983年9月5日発行 156頁(うちカラー12頁) 3000円

 帯に「イトウ特集」と銘打ってあり、本文のうち30頁程度がイトウに割かれています。前号(8号)前半の学術誌寄りアプローチは研究者には高い評価を受けたものの、一般からはかなり不評だったようで、2000部刷ったが1650部しか売れなかった、読者カードの返信数が過去最低だったと報告されています。本号は、以前の傾向に戻っています。

 口絵にイトウのペアのフィールド写真(稗田一俊氏による)や、ニッポンバラタナゴのバリエーション(水槽写真+標本写真)など。

 巻頭はイトウ座談会。研究者に加え、画家の佐々木栄松氏[2012年逝去]、釣師の草島清作氏[後にオビラメの会会長]が参加しています。「チライ」「オビラメ」といったイトウの呼び名[厚岸の別寒辺牛川には「チライカリベツ川」という支流がある]についての議論[何らかの結論が出たわけではない]、イトウは毎年は産卵しないらしいこと(栄養状態による?)、実は海水適応が強く、戦後間もない頃に根室湾内でカラフトマス、アメマスとイトウが大量に回遊していたこと、戦前に樺太の敷香(現在のポロナイスク市)で、白いイトウを見たこと、7年前(昭和50年頃)道東で80cmの白いイトウを釣ったこと[佐々木氏は白いイトウをテーマに画を描いておられます]、などが掲載されています。最後に、イトウ保護のためには自然全体を保全すべき、で結ばれています。

 谷口順彦、関伸吾両氏による「湖産アユと海アユの遺伝的分化」では、アイソザイム分析により湖産アユは1.7万年前(ウルム氷期の海退期)に海アユから分化したと推定、各地に放流されたアユは、地元の海アユとは交雑していないことも示しました。その理由として、湖産アユが採り尽くされてしまうこと、繁殖期が1ヶ月以上早いこと、湖産アユは海に流下して死滅する可能性が高いこと等を挙げています。

 鳴瀬智仁氏、吉安文彦氏による「頭上斑より見た日本在来イワナ」では、頭部斑紋に着目した各地の特色をカラー写真で紹介する報文が掲載されています。

 短信で、紀平肇氏が、「淀川における58番目の侵入者」として、昭和55年頃からオオクチバスが淀川の湾処にも認められるようになったこと、枚方市のため池で、例年大量に捕れていたタイリクバラタナゴが昭和58年から1匹も獲れなくなったことを報告しています。同じ著者による「環境の変化と魚層の変遷」では、枚方市くずはニュータウン近辺の用水路が昭和47年に改修されコンクリ3面張りとなり、以前イチモンジタナゴ、カワバタモロコなど19種類の魚類が見られたのが、昭和57年にはわずかにモツゴとキンブナの2種のみになったことが報告されています。


10号
 1984年8月20日発行 168頁(うちカラー8頁) 4000円

 カラー写真は久保達郎氏によるキリクチのフィールド写真。他にイタセンパラの水槽写真、外国の淡水魚の紹介。

 本文冒頭は「日韓の淡水魚を語る」。韓国の田祥麟氏(祥明女子大助教授)を交えての座談会で、中村守純氏、小野信一氏、細谷和海氏、君塚芳輝氏によるものです。カゼトゲタナゴやイチモンジタナゴは、日本のものと韓国のものでは違うことなどが議論されています。ヒガイのエピソードとして、戦前はヒガイはホンモロコよりも高級魚だったこと、普通のヒガイとアブラヒガイを交雑させてみると、F1はすべてヒガイ、F2はヒガイ:アブラヒガイ=3:1となったこと、カマドヒガイは現在も湖東部の砂地で見られること[8号にカラー写真あり]も報告されています。なお、この座談会で、田氏より「『日本海』とあるのは『東海』と表記してほしい」との要請が編集部に対してあったが、編集部はこれを断ったとしています。

 水野信彦氏の「アジメドジョウ保護の署名活動について」では、岐阜県で昭和49年よりアジメ受け漁の漁獲と規制を漁協に一任することが10年の期限で施行されており、丹羽彌氏[アジメドジョウの命名者]がかねてより強く反対されておられたが、その期限が迫っていたため上松知事に談判した結果の報告です。アジメ受け漁の禁止と禁漁期の設定を求め、全国から研究者など約500人の署名を集め、丹羽氏、水野氏らが知事に面会したところ、知事は「アジメドジョウがこんなに有名な魚とは知りませんでした」と述べたということです。[その後アジメ受け漁は再び知事の許可制となりました。]

 波貝茂和氏の「変異の保護」は、在来魚の放流に着目し、同じ種であっても集団の変異を減少させることを指摘しています。

 本号はタナゴの小特集となっています。西村満夫、長田芳和両氏による「スイゲンゼニタナゴとカゼトゲタナゴについて」では、サンプル調査に基づき、両種の間に体長や体高比に有意差が認められたことを報告しています。浅野俊一氏の「濃尾平野のイタセンパラ」では、長良川で1976年にイタセンパラを確認した河川敷内の湾処が、河口堰建設に伴う工事により埋め立てられ(1980年)、絶滅したことを報告しています。


11号
 1985年9月3日発行 196頁(うちカラー8頁) 4000円

 本号はページ数がかなり増えました(紙が薄くなっているので厚みはこれまでとあまり変わりません)。

 カラー口絵は中海、宍道湖の魚種の水槽写真、沖縄の川魚(ハヤセボウズハゼ、ミスジシマイサキ、ヒゲソリオコゼなど)の標本写真、イシドジョウの標本写真など。(ミスジシマイサキは現在のシミズシマイサキ?)

 特集は中海・宍道湖の淡水化で、反対論調です。越川敏樹氏の「宍道湖とその周辺水域の魚類」では、宍道湖の特産種として「ウキゴリ属の一種」が登場します[後の「シンジコハゼ」です。]。本種は特異なな生態的特性を2点持っており、①中海と宍道湖の境界付近でビリンゴと明瞭に分布が交代する、②シンジコハゼは中海の流入河川に遡上する習性はほとんど見られない(ビリンゴは遡上する習性が強い)、とされています(注記に、頭部の感覚管がジュズカケハゼより短い、とあります)。平塚純一氏の「宍道湖の桝網で漁獲された魚類」では、宍道湖東岸にある大橋川付近の魚の方言が掲載されていますが、「ウキゴリ属の一種」とビリンゴは区別されておりません。[中海・宍道湖淡水化事業は昭和63年に延期決定、平成14年に正式に中止が決定されました。]

 赤羽徳雄氏の「狭山池ブラックバス騒動記」は4号の東条湖の事例の続編です。狭山池(大阪府南河内郡狭山町:現在の大阪狭山市)は、古事記や日本書紀にも登場する日本最初の人造湖(47ha)。この池も東条湖同様、当時はワカサギ釣りのメッカとなっていた。昭和57年冬、この池でオオクチバスが見つかる。昭和58年10月、ワカサギが1匹も網にかからない。この冬の営業は断念し、池を干し上げることにしたら、約5000匹、計3トンものオオクチバスが出てきた。バス退治を新聞が報じたところ、バス・ファンと思われる人びとが地元の管理会社に押しかけてきた「ブラックバスを殺すなんてかわいそうなことはやめてくれ」等。翌昭和59年はワカサギは順調に生育したが、バスは再び姿を見せる。上流のため池にヤミ放流されたバスが下ってくるらしい。この様子では2年に一度池干しをしなければならない…。といった内容です。

 谷崎正生、中村一雄、佐藤一彦、木村英造各氏による座談会「ニジマスを見直そう」は、そのタイトルや趣旨はさておくとして、かつて日本がなぜニジマスを熱心に定着させようとしたのかの一端を示す貴重な記録となっています。これには戦争遂行と深いかかわりがあったらしく、ドイツが第一次大戦に敗れたのは食糧の国内需給がままならなかったためで、陸軍、海軍とも、ニジマス養殖の事業化を後押ししていたようです。出席者の一人、谷崎氏は、戦時中、水産庁の徳久三種氏から聞いた話として、ニジマス移入には山本五十六長官が陰で尽力してくれた、ニジマスを差し上げたことに対して礼状を頂いた("旗艦大和にて 山本五十六"と署名されていたという)といったエピソードを紹介しています。しかし、実際はニジマス事業はうまくいかず、"大本営発表"状態だったとのことです。軍が人事権を握っていたため、うまくいっていると都合のよい報告をしていたのです。うまくいかなかった原因は基礎研究の不足にあり、例えば「ニジマスは降海しない」という触れ込みであったが、実際に五十鈴川(三重県)に放してみると、大きいものはすぐに伊勢湾に下っていったということです。


別冊 うろくず集・今西錦司サケ科魚類の研究と随想
 1986年2月15日発行 131頁(うちカラー4頁) 3000円

 探検家としても知られた今西錦司氏がサケ科魚類について書いた論考や随筆を集めた特集。「うろくず」とは魚の古名です。内部の体裁は従来と異なり、一段組で行間が広く、余白も少なくありません。冒頭に今西氏の紹介文。カラー口絵は本特集で取り上げられているサケ科魚類のカラー写真(主に水槽写真)で、サラマオマスや後述のアスラなども含まれています。

 昭和31年の『スノー・トラウト』はインド、カラコルム地方にマスがいる、という報告を、実地確認に行った際の記録です。最初にマスがいると報告したのはジョージ・クッケリルで、クンゼラーブ川[インダス川水系フンザ川の支流]で獲ったというもの(1893年)。次いで、ショーンバーグが1934年にクンゼラーブ川を訪れ、マスを多数捕獲したと報告(志摩碌朗訳『未知のカラコルム』生活社 1942)。続いてフィリッピ「カラコルム・アンド・ウェスターン・ヒマラヤ」に、ビアホ川[インダス川水系ブラルド川の支流か?]の源流にトラウトがいると記載されている。サケ科魚類の南限は、大島正満氏が記載した台湾のサラマオマスだ、もしや氷期にはベンガル湾やアラビア海までサケ科の魚に適した水温になったのか? これを確かめるために実際にカラコルムのブラルド川に遠征したわけです[クンゼラーブ川は余裕がないため行けなかった模様]。現地で聞き込みを行っていると、奇遇にも、ショーンバーグの案内人だったという老人に会い、マスはクンゼラーブとビアホにいることが分かった。ブラルド川まで行ったが、ここは氷河のある場所特有の赤濁りの泥水で、珪藻が育たないため川虫がおらず、マスもいない。清らかな支流を探してついに清流を見つけ出した、さあ、明日調査しよう、とキャンプに戻ると、中尾[佐助と思われる。照葉樹林文化論で知られる植物学者]。が魚を2匹捕ってきていた。中尾は同じ支流の下流にあるきれいな水の池でこの魚を捕ったのであった。しかし、どう見てもコイ科の魚であった[現地ではアスラ。口絵にカラー写真あり]。スノートラウトの夢ははかなく消え去った、というものです。


12号
 1986年10月20日発行 152頁(うちカラー8頁) 4000円

 カラー口絵は、シンジコハゼの水槽写真[この名称はこれが初登場と思われます。]、イトウのペアのフィールド写真(桜井敦史氏)、サラマオマスの世界初のフィールド写真(曽晴賢氏)、メナダのフィールド写真(湯浅卓雄氏)、湖沼型ヤマメのフィールド写真(山崎泰氏)など、フィールド写真が充実しています。他に、ヤリタナゴとアブラボテ雑種の水槽写真など。

 本号もかなり学術的な色彩が強くなっています。

 特集は、前号に引き続き、「宍道湖中海淡水化事業を告発する」です。越川敏樹・佐藤仁志両氏による「宍道湖に生息するウキゴリ属の1種(第1報)」は、後のシンジコハゼについての報文で、ビリンゴやジュズカケハゼとは①頭部感覚管に違いがあること、②頭がビリンゴよりもやや大きく、③上顎がジュズカケハゼよりも短いこと、④稚魚の出現時期がビリンゴよりも2週間程度遅れること、などが報告されています。また、棲み分けについては、宍道湖の出口付近など境界付近ではビリンゴと混生していること[前号では明瞭に分布が交代するとされていた]が分かったとしています。[本稿には「シンジコハゼ」という名称は出てきません。この名称はカラー口絵のみです。また、後にシンジコハゼは富山県、石川県、福井県の他、朝鮮半島やロシア沿海州でも見つかっています。]

 坪川健吾・山本章造両氏による「カワヤツメの新分布(岡山県吉井川)」では、1983年12月、吉井川の一支流、河口から70kmのところで全長約50cmのカワヤツメが捕獲されたことを報告し、何らかの大型生物(マス類など)への寄生により運ばれたと推測しています。


13号(終刊号)
 1987年9月23日発行 137頁(カラー頁なし) 2700円

 終刊号。カラー頁はなくなりました。価格は2700円と大幅に下がっています。学術誌が英文化してきて、和文ペーパーの発表機会が少なくなったことなどが原因で、本号も前号に続き学術的色彩が強いものになっています。カラー口絵には、タネカワハゼ、ナンヨウボウズハゼ、大型のイトウ、イワナの産卵のフィールド写真が掲載されています。

 特集は前号に続き、「宍道湖中海干拓淡水化事業を告発する」(第3部)。ここでは、かつて淡水化された児島湖について、元妹尾町長[昭和46年に岡山市に合併。現在の南区の一部]だった同前峰雄氏が「岡山平野の"野壺"と化した児島湖」と題して寄稿しています。この中では、現在の[昭和62年時点の]児島湖しか知らない若い人たちの感想として、「ぞっとするほどきたなかった」「5年前に死んだ僕のおじいちゃんは締切堤防の工事をやっていたが"淡水湖になってこんなに汚くなるとは思わなかった"と生前に言っていた」(いずれも原典は児島湖21県民の会会報2号より)といった声を紹介しています。注として[本号が発行された当時の]BOD[CODの誤りか?]は11mg/lとあります。[締切堤防は昭和33年に完成。平成20年代のCODは7-8mg/l程度で推移。]

 谷口順彦氏の「リュウキュウアユの保護について」では、筆者が奄美大島の個体をサンプリングし、アイソザイム分析を行った結果を報告しています[リュウキュウアユは沖縄島では既に絶滅]。その結果、本州系アユとの分化年代は135万年前と推計され、「別の種類と考えた方が現実的」としています[現在は亜種とされている]。生態的には排他性が弱い(縄張り意識が低い)ことを紹介しています(川那部浩哉「アユの社会的構造の進化史的意義について」1972)。併せて、遺伝的変異性が顕著に減退している可能性があるとしています。このため、本州系アユを導入したり、近隣の河川から放流種苗を確保するといった策を実行することはできないと結んでいます。

 久保達郎・木村英造両氏の「まぼろしのイワナ、キリクチを護るために」では、キリクチの復活・保全のために各種の放流を行ったことを報告しています。弓手原川のキリクチを屋久島の安房川水系荒川の源流に、天川水系弥山川のキリクチを日高川源流(20数年前からキリクチはいない)に放流したものの、いずれも種苗が極めて弱かったため定着に至らず、天川水系弥山川のキリクチ、弓手原川のキリクチ、木曽川水系のイワナを交配し、90%キリクチなどの種苗を作って日高川源流に放流し、キリクチ純度を100%に上げる努力を継続するとしています。

 内山隆[現:内山りゅう]氏の「ウシモツゴの形態と生態」は、モツゴ、シナイモツゴとの比較を中心とした総合的な報告。ここに出てくる岐阜県養老郡の用水路と池では、ウシモツゴとモツゴが共存しており、数の上ではウシモツゴが多いようであったとしています。つまり、シナイモツゴのようにモツゴと交雑せずに共存していること、産卵期はウシモツゴの方が早いらしいこと、モツゴの成魚が中層~上層、ウシモツゴの成魚は常に底層で採集され、棲み分けているらしいことなど重要な知見がまとめられています。[この生息地は通称ドカベンの『日本の淡水魚』でも登場する池と思われますが、1984年にオオクチバスが入ってしまい、さらに後に埋め立てられ、消失しています。]


「淡水魚保護」
 淡水魚保護協会 1号(1988)-5号(1992) B5判

「淡水魚」が専門的になりすぎた、との反省から、一般人にもわかりやすく、という視点で再出発した同会の後継機関誌。表紙がカラー写真となり、口絵が少なくなりました。この頃は誌面も中海・宍道湖の干拓・淡水化阻止、長良川河口堰阻止、といった運動色が強くなっています。


1号(創刊号)
 1988年7月25日発行 136頁(カラー口絵なし) 2700円

 表紙のつくりが簡素になり、カラー口絵はなくなりました。表紙はネコギギのカラー水槽写真、裏表紙はヒナモロコの水槽写真と、イタセンパラなどのテレホンカードの紹介。本文のレイアウトはあまり変わっていませんが、字は大きくなりました。価格も2700円と「淡水魚」13号並。「淡水魚」8号あたりから学術的偏向に進み出したことを反省(会員も減少していった)、保護と密接な記事を中心とすることとしています。水保全や希少魚保護のための各地からのレポートを中心に、提言、論壇、各地の保全組織の紹介といった誌面構成です。学術的色彩は薄くなっています。

 宍道湖中海淡水化事業については、昭和63年5月31日、島根・鳥取両知事が「当分の間延期」と議会に報告し、事実上凍結となった旨が報告されています。

 本号には、長良川河口堰反対運動への参加願いチラシが挟まれています。本文中ではサツキマス絶滅記念碑の建立を訴えています。

 当時学生だった吉田成俊氏による「自然は養殖場でよいのか」では、生態系神聖論の立場から協会によるキリクチ放流に疑問を投げかけています。また、「二次的自然もまた、原生的自然におとらない意義を持つ」と現在の里地里山論に通ずる記述があります。協会の行った放流については、リニューアル後の本誌においても議論が続けられていますが、協会は生態系神聖論の立場には与しないとしています。

 本号で秋山廣光氏による「琵琶湖のブラックバス汚染を語る」は生々しい報告です。琵琶湖文化館周辺でびん漬けを行うとヤリタナゴやイチモンジタナゴが大量に捕れていたのが、昭和57年に状況は一変、タナゴ類はカネヒラを残し姿を消し、投網を打ってもバスとギルばかりになってしまったと報告しています。カネヒラだけがなぜ生き残れたのかという仮説などを提示しつつ、本当の意味で取り返しが付かないと述べておられます。


2号(89年号)
 1989年8月25日発行 160頁(カラー口絵なし) 3000円

 表紙はサツキマスのペアのフィールド写真(田口茂男氏)、裏表紙にリュウキュウアユのフィールド写真(新村安雄氏)など。おそらく「サツキマス」という名称が初めて用いられています(前号ではアマゴマスという名称を用いた報文がある)。これについては、短信「サツキマスの名称の由来について」に解説があり、「アマゴマス」「ヤマトマス」「サツキマス」といった名称が提案されていたが、昭和49ないし50年に中村守純氏が「サツキマスが和名として最も適当」と述べていた旨が紹介されています。特集は「長良川河口堰建設阻止のために」で、宍道湖中海淡水化事業の凍結により、運動は長良川にシフトしています。朝日新聞の岐阜県版に掲載した意見広告「サツキマス絶滅碑(仮)建立」のコピーが挟まっています。

 河合典彦氏の「変貌するワンドの環境」は、淀川のワンドの変遷をまとめたものです。1971年、淀川の工事実施基本計画が改訂され、ワンドやタマリはすべて消失することになっていたが、日本生態学会、淡水魚保護協会等の努力により、城北ワンド群をはじめ、ある程度保存されることとなった。しかし、環境は年々悪化している。具体的には、①湖沼化:軟泥が堆積し、透視度が悪化(かつては夏でも1m以上見えていたが、冬でも30-50cmとなった)。特に城北ワンド群の最下流のワンドではかつて最も透明度がよく、1970年代前半まではかなりのアユモドキが棲息していた。②淀川大堰による水位調節:洪水調節により、水位変化が乏しくなった。③ごみの増加:ビニール類が沈んだり、盗難バイクの遺棄が増えた。④ブラックバスが急増:アユモドキは1980年が最後(淀川では1980年よりオオクチバスが確認されています。)。イタセンパラも年々減っている。これらを総括して、淀川の水質が最も悪かった1969-73年頃の方が、ワンドの魚類は現在よりもずっと豊富であった、としています。

 来田仁成氏の「井堰に棲むバス」は、近畿圏主要河川における当時のオオクチバスの生息状況をまとめたものです。1988年当時にはほとんどの河川にバスが棲息し、繁殖も始まっているらしいことを釣り人への聞き取りなどを基に整理しています。併せてバス釣り人たちの心情についても分析し、①バスを放すことで新しい釣り場が増えたことを意気揚々と話す人々、②柔軟な心でバスが問題であることを受け止める人々、がいたとしています。①は「キャッチ・アンド・リリースが自然を守るために必要」と主張するが、「ならば何故元からそこにいた魚たちを捕食する新たな魚種を放すのか」、という質問に対しては見当外れな答しか聞くことができず、異星人のようであったと評しています。②はバスだけでなく、他の釣りにも関心を持っている人々だったとしています。バスを誰が放したか、については、確たる根拠がないため名前は出せないが、ある大手釣り具メーカの社員たちが大量のバスを何度にも分けて琵琶湖に放した、という話を聞いたが、これはバス釣り愛好者の間では周知のこととされている、と報告しています。

 稲葉修氏「茨城県のイワナ」では、茨城県の在来イワナが、他では見られない独特の虫食い状の模様を持つこと(裏表紙にカラー写真があります)、県内ではエゾイワナや、エゾイワナとカワマスのF1が放流されていることを報告しています。


3号(90年号)
 1990年7月25日発行 160頁(うちカラー4頁) 3300円

 カラー口絵が復活し、レッドデータブック記載種のうち絶滅危惧種が掲載されています。うち、リュウキュウアユ(新村安雄氏)、ネコギギ(徳田幸憲氏)はフィールド写真と思われます。他にもキリクチ、九州産ギバチ(現在のアリアケギバチ)など。

 本号も、長良川河口堰に20頁余を割いています。

 稲葉修氏の「茨城県の天然イワナ・生息地の天然記念物指定へ」は、前号で報告された虫食い状の模様があるイワナについての後日談です。県内の自然保護団体の某氏が、有力新聞に棲息河川も含めて発表しててしまったため、全国から釣り人が押し寄せ、一部の河川ではイワナが釣れない状態になってしまった。これを契機に、市町村の天然記念物に指定されたことを報告しています。

 山田国広氏の「河川敷ゴルフ場の環境破壊」は、1990年当時、バブル景気の中、いくつものリゾート開発が行われた中で、河川敷ゴルフ場に着目した論考です。「ゴルフ場問題=農薬問題」という矮小化が進行していく中、河川敷ゴルフ場は総合的な環境破壊であると論じています。1990年3月、建設省近畿地建と関係府県は、淀川水系等について「環境管理計画」を策定した。淀川では三川合流点より下流に6カ所のゴルフ場が河川占用許可を受けているが、「いずれも将来は河川敷ゴルフ場を廃止すべき」という方針を打ち出した(更新時に廃止に向け行政指導する、との趣旨)。河川敷には様々な生物が棲息する。(たとえ無農薬でも)貴重な自然を破壊するような河川敷ゴルフ場はもう要らない、と結んでいます。[平成27年現在、これら6つのゴルフ場のうち、1つが平成26年に廃業。跡地はワンドや葦原の再生の他、淀川河川公園として整備する箇所になっているようです。]


4号(91年号)
 1991年8月25日発行 136頁(うちカラー4頁) 3000円

 口絵はレッドデータブック危急種として、ゴギ、ウケクチウグイ、ハリヨ、ヤマノカミ等。うち、ハリヨは内山隆氏によるフィールド写真。他にオガサワラヨシノボリ、富山県で再発見されたイタセンパラなど。

 引き続き長良川河口堰問題に30頁を割いています。平塚純一、木村栄造両氏の訳による「長良川河口堰に対する海外の反響と日本政府の対応」では、1991年7月に米ニューヨークタイムズ紙に掲載した意見広告(協会が募った寄付による)に対する反響の紹介と、政府の反論をまとめたものです。意見広告の中で、協会側は、サツキマスは河口堰建設のため今や絶滅に向かっている、魚道はサツキマスの移動には全く役に立たない等を主張しています。これに対し、建設省は、サツキマスは全国30近い河川で棲息している、魚道は筑後大堰でも実績のあるもので、サツキマスのような遡上力の強い魚は極めて容易に遡上する、等の反論を行っています。(『淡水魚保護』でも、2号で淀川においてサツキマスが捕獲されていることが報告されている)

 本間義治氏の「ウケクチウグイ-この著名な未記載種の由来と将来」は、本種と明らかに同定しうる図を載せた最も古い文献として松森胤保『両羽博物図譜・両羽魚類図譜』を挙げ、その図版を載せています。この図は、明治5(1872)年11月24日、最上川中流域で捕獲された「頰長バエ」の魚拓です(まごうことなきウケクチウグイです。)。併せて、形質、成体、分布、大陸に棲息する類似種との関連など、総合的な報文となっています。

 田北徹「有明海における特産魚類の分布について」では、ハゼクチやヤマノカミについて、当時の生息状況を調査したものです。ハゼクチについては2地点で産卵床を確認しています。[うち1地点は、諫早湾干拓のため消滅。]

 横山達也、小谷昌樹両氏の「富山県で再発見されたイタセンパラ」は、平成元(1989)年11月、小谷氏ら4名の近畿大学生が、氷見市でイタセンパラを発見したことを報告するものです。分水路的な場所での発見で、「大変貴重な場所」としています。


5号(92年終刊号)
 1992年12月発行 200頁(カラー口絵なし) 00円

 「淡水魚」「淡水魚保護」を通じての最終号。カラー口絵はありませんが、200頁とボリュームがあります。引き続き、長良川河口堰関連に30頁以上を割いています。また、この年に亡くなった今西錦司氏の追悼に10数頁を割いています。長良川河口堰に関しては、編集後記の中で、建設族の圧力がすごいことや、主に漁業関係者から「堰を完成させた後で稼働させない」という主張が出ており、最初は10億円だった漁業補償の額が交渉過程では130億円以上になった結果、「中止になってしまっては元も子もない」という心情になっていることについて「何ともやりきれない」等述べられています。

 望月賢二氏の「ミヤコタナゴの現状と保護」では、田園環境が人工的である以上、人間の手が入らなくなってミヤコタナゴが激減した事例を挙げています。マツカサガイやタナゴ類が多数生息する場所があったが、1992年に大部分が休耕田になり、水路の中に植物が繁茂したり、土砂が溜まったりして棲息量が激減したとしています。ミヤコタナゴ生息地の稲作は、多くが高齢者によって担われており、後継者がいないことを懸念しています。併せて、千葉県の複数の生息地で、ヤリタナゴの侵入により、ミヤコタナゴが大きく減少したと思われる例があったことを報告しています。保全の方法として、地域の環境(制度や経済も含め)の中に自然という要素を取り入れ、人間が関与して管理する方法を模索する、そのためのマスタープランが必要、としています。

 巻末には、「終刊号によせて」という付録があり、2つの座談会を収録しています。一つは協会の原点でもある淀川に関するもので、イタセンパラが水系内をよく移動すること、河川敷をお花畑にすることやホタル復活活動についての疑問、淀川大堰が完成(1983)してからスジシマドジョウ[ヨドコガタスジシマドジョウと思われる]が全く捕れなくなったこと、などが議論されています。もう一つは淡水魚全般がテーマで、ウシモツゴについては養老郡(岐阜県)の生息地は既にだめになったこと、飼育してもモツゴより底にいること、アブラヒガイについては極端に減っていること、ゼニタナゴについては霞ヶ浦ではまず獲れなくなったが流入河川ではまだ獲れていること、アユモドキについては吉井川水系の農業用水路に良好な環境が残っていてたくさん棲息していたが、農水省のモデル事業として圃場整備が行われ、以前の環境が消滅してしまったこと、全国一律でその通りにやらないと補助金が出ないという仕組みは問題、琵琶湖では昭和54(1979)年以来獲れなかったが、今年(平成4年)、西の湖で大きな雌1匹が獲れたこと、等が述べられています。


「淡水魚」「淡水魚保護」事業報告
 1993年3月発行 87頁(カラー頁なし) 1200円

 協会の清算報告。装丁は従来の「淡水魚」のものに戻っています。長良川河口堰問題の経緯まとめ、会員からのメッセージを掲載し、その後に最終期(平成4年度)の事業報告と、淡水魚保護協会の総合事業報告を配しています。保護活動を行った魚は、イタセンパラ、アユモドキ、キリクチ、イワメ、ニッポンバラタナゴ、ウシモツゴ、ヒナモロコ、東限のカワバタモロコ、ゴギ、スイゲンゼニタナゴ、リュウキュウアユ、タナゴモドキ、ムサシトミヨ、アジメドジョウ、サラマオマス。放流活動を行ったのは、屋久島(ヤマメ)、ネパール(アマゴ)、京都府宇川(シロザケ)、北海道(本州の陸封ヤマメ)、タイ(アマゴ)。それぞれのまとめが掲載されています。


「カラー熱帯魚淡水魚百科」
 杉浦宏 編著、藤川清 写真 平凡社 1980年8月初版 新書版 509頁 2500円

 ハンディサイズの分厚いカラー百科。同じシリーズに「動物百科」や「生物百科」がありました。網羅的な図鑑ではなく、代表的な種を掲載しています。前半が世界の熱帯魚、後半が日本の淡水魚です。飼育のための本です。



「イタセンパラの生態 木曽川を中心として」
 建設省中部地方建設局木曽川上流工事事務所/編 建設省中部地方建設局木曽川上流工事事務所 1986 B5判 194頁

 1980年代、当時の建設省が木曽川本流を中心にイタセンパラ保全のための試みをまとめた詳細な報告書。当時、建設省は木曽川下流の2カ所に湾処を造成しましたが、結果的にはそこでの保全は成功しませんでした。[うち、下流側の湾処は私も現地を訪れました。造成から30年を経て、当時は砂礫だった河原は密林に変わり、湾処は水草の生い茂る濁った沼となっておりました。残念ながらとてもイタセンパラが住めるような環境には見えませんでした。本報告書が出た当時は、生息場所を確保することが重要と考えられていました(湾処は埋め立てられるのが通例だった)。現在では、洪水が起こらないことが最大の脅威だと考えられています。増水の頻度が低いために、湾処やタマリの水が入れ替わらず、河畔林の落ち葉が積もり、酸欠で二枚貝が生きていけないのです。]


「日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料1」
 水産庁研究部編 水産庁研究部漁場保全課 1994年3月 A4判 696頁

「日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料2」
 水産庁研究部編 水産庁研究部漁場保全課 1995年 A4判 751頁

「日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料3」
 水産庁研究部編 水産庁研究部漁場保全課 1996年3月 A4判 582頁

「日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料4」
 水産庁研究部編 水産庁研究部漁場保全課 1997年3月 A4判 590頁

「日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料5」
 水産庁研究部編 水産庁研究部漁場保全課 1998年3月 A4判 83頁

 水産庁が平成6年から10年の5カ年にわたり、水鳥も含めた水生生物についてその分布状況や絶滅の危険度を整理した一大報告書。海産魚も含まれます。5巻を除く各巻は、「淡水魚類」「甲殻類」といった分冊で製本された版もあります。それぞれの種がそれぞれの専門家によって非常に詳しく記載されており(1種当たり平均7-8頁程度)、1990年代の情報とはいえ、まとまった書誌としては最も詳しい文献です。分類順ではありません。結果的に普通種と評価されたものも含まれています。また、外来種も対象となっています。本文は白黒ですが、カラー写真が付属していて、生息環境の写真もあります。

 1巻は、全文がPDFで水産庁のHPに掲載されていましたが、現在は見ることができません。

 淡水魚については、各巻、以下の種が収録されています。

1.オオウナギ、ウケクチウグイ、ヒナモロコ、イタセンパラ、ミヤコタナゴ、アユモドキ、イシドジョウ、ホトケドジョウ、ビワコオオナマズ、イワトコナマズ、リュウキュウアユ、オショロコマ、ビワマス、ムサシトミヨ、オヤニラミ、タイワンドジョウ

2.カワバタモロコ、アブラハヤ、タカハヤ、カワヒガイ、ビワヒガイ、イシカリワカサギ、アユ(池田湖産)、イワナ(ニッコウイワナ)、サクラマス、タウナギ、ツバサハゼ、キバラヨシノボリ

3.スナヤツメ、シベリアヤツメ、ゼニタナゴ、スゴモロコ、コウライモロコ、アジメドジョウ、アリアケギバチ、アカザ(九州産)、ウツセミカジカ(琵琶湖産)、イドミミズハゼ、タナゴモドキ、シンジコハゼ

4.ホンモロコ、シナイモツゴ、ウシモツゴ、アブラヒガイ、スイゲンゼニタナゴ、ギバチ、ネコギギ、イトウ、ミヤベイワナ、キリクチ(ヤマトイワナ)、ゴギ、サツキマス、メダカ(琉球列島産)、ハリヨ、ヤマノカミ、カマキリ、アオバラヨシノボリ、イサザ 海産魚類として、シシャモ、アリアケシラウオ、アリアケヒメシラウオ

5.タナゴ、アカヒレタビラ、セボシタビラ、イチモンジタナゴ、ニッポンバラタナゴ、カゼトゲタナゴ


「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」
 水産庁 編 日本水産資源保護協会 1998 A4判 437頁 3500円

 「日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料」シリーズのダイジェスト版。普通種と判定された種を除き代表種を選び、各種を見開き2頁にまとめたものです。上記報告書と異なり、一般向けに市販されました。


「川の生物図典」
 リバーフロント整備センター【編】山海堂 1996年4月初版 B5判 674p 19776円

 植物から魚類、鳥類、甲殻類、昆虫類に至るまで、淡水環境に棲む主な生物種ごとに、その生活史、生息環境、保全方法などを見開き2頁に整理したオールカラーの大著(ハードカバー)。一種一種のことを詳しく知る、というよりは、他の生物との関係や生態系全般を俯瞰するための網羅的な参考文献です。


「トゲウオのいる川 淡水の生態系を守る」
 森誠一 著 中央公論社 (中公新書) 1997年6月初版 新書判 206頁 680円

 かつては水源として大切にされた湧水も、水道の発達とともに顧みられなくなり、そこに遺存していたトゲウオ類は次々と失われていきました。一方、著者の森氏をはじめ、それぞれの地域で保全のために立ち上がる人たちも出てきました。本書はそうした取組の記録を主軸に据えています。徳田幸憲氏によるフィールド写真がカラー口絵で付いています。


「図説 川と魚の博物誌」
 渡辺昌和 河出書房新社 1999年7月 A5変形版 111頁 1800円

 「ふくろうの本」シリーズの一冊。淡水魚層から見て日本を10ブロックに分け、それぞれの地域の代表的な魚を紹介したカラー図誌(半分は白黒)。その地方を代表する普通種の紹介を中心に据えています。一般の方が川に親しむ、という観点で書かれた本です。タナゴが東北では山中の渓流で見られるなど、興味深い記述がいろいろあります。


「淡水生物の保全生態学―復元生態学に向けて」
 森 誠一 (編著) 信山社サイテック 1999年11月30日初版 B5版 247頁 2800円

 外来種対策、河川の改修方法など、淡水魚のみならず淡水域の多様性保全に向け、各研究者の成果を集成した書籍。イタセンパラの保全についても述べられています。


「貝に卵を産む魚」
 長田芳和 監修 福原修一 著 トンボ出版 2000年7月初版 B5判 79頁 1800円

 要はタナゴの本。繁殖などタナゴの生態についてわかりやすく解説した書籍。タナゴ類の生態に迫りたいなら、是非一読をお勧めします。


「川魚入門 採集と飼育」
 アクアライフ 編 マリン企画 2001年3月 A4変形判 128頁 1800円

 日本産淡水魚をカラー写真(水槽)で紹介し、その採集方法、飼い方を解説した本。


「ため池の自然 生き物たちと風景」
 浜島繁隆 [ほか]編著 信山社サイテック 2001年 A5判 231頁 2500円

 図鑑ではなく、ため池の遷移、調査方法などをオムニバスで集成した一冊。前半は植物編、後半が動物編で、淡水魚についても記載されています。


「川と湖の生き物の飼い方」
 ピーシーズ 2001年8月 A4版 160頁 2286円

 日本産の淡水魚、甲殻類を、生息環境ごとにカラー写真で紹介し、捕獲方法や飼育方法を記載した大型書籍(ソフトカバー)。図鑑的な要素も濃い一冊です。


「宍道湖自然館 第3回特別展解説書 タナゴの自然史」
 島根県立宍道湖自然館・ホシザキグリーン財団 2002年7月 A4判 48頁

「宍道湖自然館 第9回特別展解説書 マングローブの生きもの図鑑」
 島根県立宍道湖自然館・ホシザキグリーン財団 2005年7月 A4判 74頁

「宍道湖自然館 第11回特別展解説書 日本のどじょう」
 島根県立宍道湖自然館・ホシザキグリーン財団 2006年7月 A4判 62頁

「宍道湖自然館 第15回特別展解説書 しまねのエビ・カニ」
 島根県立宍道湖自然館・ホシザキグリーン財団 2008年7月 A4判 65頁

 宍道湖自然館(ゴビウス)が発行した展示解説書。いずれもカラー写真を豊富に用いた解説書になっています。各冊とも、各執筆者がそれぞれトピックを書き、これをまとめるという体裁になっています。在庫があるものは、ゴビウスから入手できます。


「トゲウオ 出会いのエソロジー」
 森誠一 著 地人書館 2002年11月初版 B6判 214頁 2300円

 中公新書「トゲウオのいる川」と比べると、本書は研究色の強い書籍ですが、難解というほどではありません。トゲウオ類の卵泥棒、卵食いなど、興味深い生態が紹介されています。


「タナゴのすべて 釣り・飼育・繁殖完全ガイド」
 赤井裕 [ほか]共著 マリン企画 2004年 A5版 159頁 2000円

 タナゴ類のみに焦点を当てたガイドブック。飼育や釣りがメインで、繁殖方法なども掲載されています。


「希少淡水魚の現在と未来 積極的保全のシナリオ」
 片野修、 森誠一 監修・編 信山社 2005年7月 B5版 416頁 4500円

 絶滅危惧種の現状や保全方法を知るには必携の大著(ハードカバー)。種ごとにそれぞれの専門家が詳しく記載しており、当時望みうる集大成と言えます。その後、同様の趣旨は、『魚類学雑誌』の「シリーズ希少魚」に引き継がれていると言えましょう。


「タナゴ大全」
 赤井裕、秋山信彦、上野輝彌、葛島一美、鈴木伸洋、増田修、籔本美孝 共著 マリン企画 2009 B5版 191頁 2500円

 『タナゴのすべて』に似ていますが(出版社も同じで、著者もだいたい同じ)、写真や文章は新たに書き下ろされたもので、重複はありません。内容的にはやはり飼育や釣りがメインです。本書ではアカヒレ系3亜種それぞれ掲載されています。


「外国から来た魚 日本の生きものをおびやかす魚たち」
 松沢陽士 著 フレーベル館 2010年7月 B5変形判 117頁 1600円

 本書は児童書の体裁を取っていますが、内容の深い本です。水中写真家の松沢氏は、海水から淡水に主軸を移した当初、バス釣り雑誌向けにオオクチバスを撮影していました。しかし松沢氏は次第にそれに疑念を感じ、仕事がなくなることを覚悟でバスの世界から足を洗います・・・。是非一読をお勧めします。


「タナゴハンドブック」
 佐土哲也 文 松沢陽士 写真 文一総合出版 2011年12月初版 新書判 80頁 1400円

 同社の「ハンドブック」シリーズの一冊。タナゴ全種を取り上げたオールカラーのハンディ図鑑。標本写真と生態写真(主に水槽)により同定できるタナゴの写真を目指しています。単に魚のみならず、生息環境の写真も併せて掲載されています。


「叢書イクチオロギア1 絶体絶命の淡水魚イタセンパラ」
 日本魚類学会自然保護委員会 編、渡辺勝敏・前畑政善 責任編集 東海大学出版会 2011年1月初版 A5判 265頁 2800円

 イタセンパラのみに焦点を当てた一冊。本書が出た当時は、淀川水系のイタセンパラは野生絶滅した状態でした。それ故、タイトルにも「絶体絶命」という強い危機感が表れています。[後に域外保全した放流個体により復活。]カラー写真も多く使われ、その生態、保全策などが各分野の専門家によって詳しく記載されています。


「叢書イクチオロギア2 見えない脅威 国内外来魚」
 日本魚類学会自然保護委員会 編、向井貴彦、淀太我、瀬能宏、鬼倉徳雄 責任編集 東海大学出版会 2013年7月初版 A5判 267頁 3200円

 国内外来魚についてオムニバスでまとめた一冊。冒頭の瀬能宏「国内外来魚とは何か」では、国内外来魚問題の難しさを示す例として、箱根町で「町の魚」がワカサギとされたことを挙げています。町の魚は、町民投票で決定されましたが、大正7(1918)年に、霞ヶ浦より芦ノ湖に移植されたものです。自然以外にも、放生といった歴史や文化に根ざした人の価値観・感性にも左右されやすいのが現状であり、自然史への重み・多様性への価値観を認識する人を育てていく必要があるとしています。

 本書では、ナガレモンイワナの分布がアメマスやニッコウイワナの放流により最上流の滝や堰よりも高い場所のみとなったこと、九州のニッポンバラタナゴにはタイリクのみならず大阪・奈良集団の遺伝子が混ざっていること、旭川水系のスイゲンゼニタナゴの一集団ではほとんどがカゼトゲタナゴとの交雑であること、鬼怒川や那珂川のオイカワは、琵琶湖のものが交雑しているらしいことなど、豊富な実例が紹介されております。

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